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NTTさん、お願いしますよ。

 投稿者:たかぱん  投稿日:2009年 5月20日(水)00時45分56秒
  またまた電話。NTTのフレッツ光。

我が家のようなアナログの回線だと、
インターネットが繋がりにくいなどという問題が出ていると言う。
だから光に換えろ、と。

今キャンペーン中だと工事費の負担もなく、
1年間は今より料金が安いのでぜひ、と。
ふうん、一年経ったら高くなるんだ。

幾度、こうしたNTTのセールス電話に、
「もうかけてこないでください」と頼んだことだろう。
この春から、コールセンターのような背景音が響くルームから、
何度も何度もかけてくる。

これは、法を無視した行為である。
しかも、そう言うと、
文句があるなら116に言ってくれ、などと開きなおる。
そこ、どうせ身内じゃないの。

それに、アナログ回線だとつながりにくいなどという、
虚偽を騙り契約を迫るのは、
端的に商法に抵触する。

あほくさかったが、少し調べると、
その「光」関係でものすごい通信障害が幾度も発生している。
 
NTT東日本、「ひかり電話」で通話集中による通信障害が続く(2006年9月20日)
NTT西エリアで通信障害・光電話の一部つながらず(2006年10月23日)
NTT東日本「フレッツ」「ひかり電話」で通信障害(2007年5月15日)
NTT西の通信障害,工事をきっかけにユーザー収容装置が高負荷に(2007年12月18日)

 (すみません。逐一見出しの出典を記しません。悪しからず)


          故障回復のお知らせ

フレッツ 光ネクストサービスにおいて故障が発生しておりましたが、
現在、回復しております。
大変ご迷惑をお掛け致しました。お詫び申し上げます。

  発生日時:2009年 5月19日(火) 11:39
  回復日時:2009年 5月19日(火) 13:36
  状  況:フレッツ 光ネクストをご利用のお客様の通信が不安定な状態でした。
  影  響:西日本エリアにおいてフレッツ 光ネクストをご利用の一部のお客様
  原  因:NGN網内設備故障
  掲載日時:2009年 5月19日(火) 14:03
  

この出典は、NTT西日本ご本人である。
http://www.ip-nw.com/nwc/ngn/fukuoka/T_ngn20090519-000006-0000.html

アナログはつながりにくいですよ、と誘いかけたその日、
実は光がつながりにくかった。
これは、ギャグでしょうか。

NTTさん、もう電話しないでくださいよ。
これだけ頼んでいるのだから。
 

祝福が待っています。

 投稿者:たかぱん  投稿日:2009年 5月 3日(日)23時22分13秒
  神のみぞ知る……などと申し上げると冷たく響くでしょうか。
あなたのために祝福を隠し持っている、
神さまを見つめていく、というのは如何でしょうか。
そこから目をそらさないようにしていくのです。
 

たかぱんさんへ

 投稿者:町田  投稿日:2009年 5月 3日(日)22時49分26秒
  これからいいことあるでしょうか…  

baremakeさんのために

 投稿者:たかぱん  投稿日:2009年 4月28日(火)00時15分10秒
  真摯な問いかけと追究を覚えます。
聖書のミステリーを、もう殆ど経験されているのではないか、とすら思われます。

思うに、ひとつひとつの疑問は、私たちには謎として残ります。
まして、私のような者に、あらゆる疑問が解決できるわけではありません。

問われたことは、非常に重く、簡単に結論が出せる問題ではないように見えます。
ただ、パウロは、自分の身を焼く犠牲を払ってでも、愛がなければ無意味だ、と叫んでいました。
通奏低音のように、意味あるものの背後には、愛が流れているというのです。

神はまた、逃れ道のない試練をお与えにならない、という慰めの言葉も、
別の箇所でパウロは用いています。

残された者、とおっしゃることが具体的にどういうことか、分かりにくいのですが、
自己犠牲を払ったその人の周囲の人が、犠牲になった人を悼む気持ちだと今理解しておきます。
「塩狩峠」で残された婚約者の気持ちなど、計り知れないものがあります。
それをすぐに受け容れるような綺麗事であるはずがない、とも思います。

痛みある人には、人間としては共に泣くしかないかもしれません。
偉そうに、それは神の摂理だ、などと言うことなど、できませんから。
ただ、イエスが、その痛みある人を救うことができます。
イエス自身、最大の苦しみを担われたからです。

愛はすべてを耐え忍ぶとあります。
これは、下から支えること、担うという感覚だといいます。
まさにこの愛は、イエスの姿です。
イエスが担ってくださったということに気づいたとき、
そしてさらに言えば、
そのイエスを苦しめたのが自分自身なのだ、と痛感したとき、
私たちは、イエスに出会います。

私は、そんなふうに感じています。
うまく説明できなくて、すみません。
 

たかぱんさんへ

 投稿者:baremake  投稿日:2009年 4月25日(土)22時30分11秒
  この間は質問に答えて頂いてありがとうございました。

つい最近ですが、愛とは許す事だと知る事が出来ました。少しだけパウロの気持ちが分かった気がします。と言っても知っただけであって全てを理解したとは言えないといます。

自己犠牲、無償の愛についても知る事が出来ました。その人の為に何してあげたい、やってあげたいと、自分の利益とは関係なく思い、行動することではないかと自分なりに思いました。

ここで一つ疑問に思った事があります。
確かに自己犠牲は尊い行為だとは思います。ですが、残された者はどうなるのだろうかと。
試練というには、あまりに酷な気がします。心が壊れてしまうのではないだろうかと
たかぱんさんは、どのようにお考えなのか聞いてみたいと思いました。
よければ、またお答え頂ければ嬉しいです。
 

再びbaremakeさんへ

 投稿者:たかぱん  投稿日:2009年 3月20日(金)01時00分43秒
  聖書に求めているbaremakeさんの姿勢をうれしく読ませて戴きました。

私見ですが、クリスチャンになるのは、
当時としても実に珍しいことであったのではないかと想像します。
だからパウロは、そうやって選ばれた各地の信徒に対して、
尋常ならぬ情熱をもって呼びかけたのではないか、と。

「求めよ、さらば与えられん」は、マタイ7:7にある言葉です。
マタイのこの辺りの説教集自体、
様々な語録を編集したものだと言われており、
明確な脈絡はなく置かれている可能性はあるものの、
すべてが無秩序に並べられているわけでもないだろう、と考えられています。
この7章は、「さばいてはならない」から始まっています。
地上のイエスは、当時人々から差別され蔑まれていた立場の人たちに
手を伸ばしました。彼らを差別しなかったのです。

そうした人々は、
社会的に優遇された地位や知識のある宗教者、
律法を守るだけの余裕が生活にあった層の人々から、
「律法も守れないのか」と馬鹿にされていた人々でした。
「あんな奴らの言うことを、神がお聴きになるはずがない」と
軽蔑されていた人々でした。

「求めよ、さらば与えられん」の次の節は、
「だれであれ、求める者は受ける」と記しています。
これが、「求めよ、さらば与えられん」の結論です。
社会的に差別され貧しさの中で律法も守れないような立場の人も含めて、
「だれであれ」、求めるならば神は良いものを与えてくださる、
そういう、良い知らせ、つまり「福音」でした。

門を叩いて探し続けるしかない、のではなくて、
門を叩いて探し続けてよい、と受け止めては如何でしょうか。

試練のことも、これまた難しい問題です。
今このときにも試練にある方々のことを覚えます。
もちろん、私自身が試練から解放されていることもないのですが。
なお、試練に打ち克つ(耐える)努力をほうりだした者は、の意味で
baremakeさんはお書きになっているものと仮定致します。

ただ、試練を克服した者がほめられる表現が聖書にはたしかにありますけれど、
それは逆に、
試練に打ち克つことが、いかに難しかったか、ということを表しています。
ペトロなど、何度試練にへこたれたことでしょう。
弟子たちは、捕らえられたイエスを見捨てて、
トンヅラしたではありませんか。
それを後からのこのこ様子を見に来たり、
十字架刑の後では、ユダヤ人の襲撃を恐れて閉じこもってぶるぶる震えたり。

試練というのが人生の困難であるにしても、
悪魔からの試みのことであるにしても、
すでにキリストは勝利している、という試合結果は定かなのですから、
その勝利の旗のもとに、留まる気持ちがあるのかないのか、
それだけが大切なことではないでしょうか。

私たちの心は折れやすいのですが、
傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことのない(イザヤ42:3)のが
主の姿です。神の恵みです。
私が自分で自分をなんとかしよう、ともがくとき、私は折れてしまうかもしれませんが、
勝利の旗のもとにとどまろうと決意したとき、
たとえそのとき私がぼろぼろに傷ついていたとしても、
主はそれを折ることが、ないのです。

主の足許に、
安心して泣き伏してよい、というのが
私なりの「信」の捉え方です。
偉そうなことばかり申しましてすみません。
どうぞ受難から復活へと
神の愛の満ちあふれるメッセージが、
この春の光の中で、baremakeさんに喜びを満たしてくださいますように。
 

たかぱんさんへ

 投稿者:baremake  投稿日:2009年 3月18日(水)20時31分52秒
  たかぱんさんへ、ご意見を頂き嬉しく思います。

たかぱんさんは、パウロがアナニアによって再び目が見えるようになったようにキリストに出会ったのですね。なんだか羨ましく思います。

キリストは人類の罪のために身代わりに十字架に架けられたというのは、
自分たちの大切なものを犠牲にささげることによって、神の怒りをなだめるという
古代イスラエルの考え方と時代背景があったのですね。もし、私がそのような文化の中に生きていたならばその方が納得がいったのではないかと思います。ただ、私がその時代に生きていたとして、クリスチャンだったか、どうかは分りませんが人としてキリストの死を悼んだと思います。


私は、自分の罪深さを悔い改める事でしか救われないと言いましたが、
マタイによる福音書に
「求めよ、さらば与えられん」
とあるように、神は既に私たちに必要なものを用意してくださっており、用意してくださったものを探して門を叩き続けることしかないということでしょうか?
また、与えて下さった試練を途中で放り出してしまった者は救われることは無いのでしょうか?弱音を吐くようで情けないですが、私の心はすぐに折れてしまいます。キリストがまだ、生きていらっしゃるうちにその事を直接聞いてみたかったと思う私は傲慢かもしれません


お忙しいところ、私の様な者に、お時間を割いて頂き嬉しく思います
ありがとうございました。
 

baremakeさんへ

 投稿者:たかぱん  投稿日:2009年 3月16日(月)11時32分6秒
  baremakeさん、誠実なご質問を、ありがとうございました。
あなたの疑問はたいへんもっともなものであると感じました。
あなたのお考えを、こちらこそ批判するということのないように、
何らかの形でお応えしなければならないと思います。

罪の身代わりという考えを人が理解するためには、
まず古代イスラエルにおける準備がありました。
イスラエルあるいは古代中東地域にわたって、
犠牲の動物という考えがあったことです。

実に血なまぐさいものですが、
各地で動物のいのちを差し出すことで、
人の罪悪を許すという図式が理解されていました。
ハムラビ法典でも、「いのちにはいのち」とあったそうですが、
これは聖書の中にもあります。
いのちを差し出さなければならぬほどの大罪を犯したことに対して、
何らかのいのちを、ということで、動物のいけにえを考えたのかもしれません。
日本でも、同様の考えは当然あったはずです。
時に動物でなく、家臣などを含めた人間のいのちでもありましたね。

こうした背景があったがゆえに、
イエスがその犠牲のささげものになった、ということで
当時の人々には捉えやすい理解が可能となりました。
つまり、イエスが命を捨てたから罪の赦しがなされた、というよりも、
そもそも罪の赦しというものは、命を捨てるところに初めてありうる、
そういう前提で人々がいたのだ、という歴史的背景です。

でも、ただ過去の歴史に刻まれたから
そこに意味がある、というのでもなさそうです。

私は、かつてキリスト教に敵対していました。
キリスト教こそが、世界を対立と破壊へ導いたものではないか、と。
だから、キリスト教思想を壊滅させようという野望すらもっていました。

ところが、出会ってしまったのです。
その意味では、パウロの体験にも共感できるところがあります。
パウロの、あの強烈でどこか自己中心にすら見える姿は、
キリストの福音を根底に据える姿勢を見せつけるためであったかもしれません。
なにしろ、実際にキリストに出会ったのであれば、
誰がどう言おうと、自分にとっては真実そのものとなります。

でも、真実には、別の形のものがあります。
3x−1=5 という方程式の問題であれば、x=2 という解があり、
誰がやってもそうなるでしょう。これは真実です。
どうして x=2 なのですか? という質問は、
およそ方程式という意味を了解しない人の台詞でしかありません。

しかし、信仰の言葉は、定式化するタイプのものではなく、
誰にも納得できるというものではありません。
逆にこれを、真理たる命題にしてしまうところに、
宗教の恐ろしい側面が浮かび上がってくる原因の一つがあるように見えます。

従って、パウロはこのキリストの救いの仕組みを、
「神のミステリー」だと言っています(ギリシア語原文)。
それが誰の目にも明らかになるのは、つまり、
このミステリーが全員の目に解決されるのは、
終末の時であるのだ、と言っています。

「神を信じれば幸せになる」ことが、
数学の方程式のように確かな真実として証明されたならば、
誰もが神を信じるでしょう。
しかし、そうなると、「幸せ」という目的のために信じたことになります。
「幸せ」こそ、究極の目的であり、神を信じることはその手段となるでしょう。
それは、少なくとも人間の罪の問題を解決することにはならないはずです。

私はかつて、きっとあなたよりももっと激しく、
自分を信じれば何でもできる、と考えていました。
何か悪いことがあっても、自分の信じるところに立てばいい、と。
ただ自己の内実に掘り下げていけば、真理はある、と疑いませんでした。
けれども、聖書の中で、
その自分が、「救いようがない」者だと、ハンマーで頭を殴られたのです。

自分の罪を自分で解決できるならば、法などいらないでしょう。
ただ道徳さえあれば、自分で修正していけるでしょう。
哲学者カントは、当時の教会をあまり怒らせないように気を配りながらも、
人間の理性の中に、そういう自律の自由な理性がある、と考えました。
近代精神は、このカントを泉として流れ出てきたと言われています。

でも私は、自分でなんか自分は救い得ないのだという次元の地の割れ目に、
深く墜ちていきました。
そのとき、キリストが直接、言葉をかけてくれました。
聖書の中に書かれた言葉が、
まさにこの私へ向けて私の顔へ直接、向けられていたことを知りました。
私は、キリストに、出会ったのです。
そうして、私は、救い出されました。

イエス・キリストの救いはこのようになされる、という
マニュアルや公式に従ったわけではありません。
ただ、聖書の恐らくすべての言葉が
自分のために、自分へ向けて発されているという体験をしました。

短く綴るのは難しい問題です。
それでも、もっと短くお伝えできる内容でしかなかったと、
自分のまとめの下手さを嘆く次第です。

でもとにかく、
baremakeさんは、激しく神に愛されている方だとお見受けしました。
きっと、あなたのための出会いが、
神の側で準備されていることと、私は密かに考えています。

あなたの捉えているような、人間的に誠実な考えより
さらに貧相なレベルでしか聖書の読めない、「牧師」も
世の中に実際いることを考えますと、
baremakeさんが求めて聖書をお読みになったことは、
何かの必要あってのことだ、と思われてなりません。

何の答えにもなっていないかと思いますが、
どうか今回はこれにてご容赦ください。
 

はじめまして

 投稿者:baremake  投稿日:2009年 3月14日(土)19時51分47秒
  はじめましてbaremakeというものです。


私はクリスチャンではないのですが、偶然このサイトを見つけて前々から疑問に思っていた事を、もしよければで、かまいませんので、教えていただけないかと思ったのです。

私の教えてもらいたい事は 耳障りかもしれませんが、キリスト教を批判するという考えはありません。ご容赦頂きたいと思います。

キリストは人類の罪のために身代わりに十字架に架けられ、皆を救う為に喜んで命を差し出した。
と聞いた時に、私は何かひっかかりのようなものを感じました。
確かに他者の為に無償で命を差し出せるのは、凄い事だと思いますし、私には同じ事を出来る自信はありません。

ですが、キリストが命を差し出したことで本当に皆は救う事は出来たのだろうか?
自分自身を救う事が出来ない者に、なぜ皆を救う事が出来るかと、疑問に思ったのです。
もし、救うのであれば、命を差し出すのではなく、生きて教えを広めるべきだったのではと思いました。
キリストの死は、神の意志によって最初から決められていた、救いのために必要な犠牲だった。と言われていますが、最期にゴルゴダの丘で、
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
と、言われたと、マタイによる福音書にあるように、本人にとっては不本意な結果だったのかも知れません。人を裁いてはならない、とも言われていたので、そんな事を言ったら、私は怒られてしまうかも知れませんが。


私達の罪は、誰かが負う事では洗い流されないと思います。
自分の罪深さを悔い改めることでしか救われないと私は考えています。

生意気な事ばかり言ってすいませんでした。
もしよければ、ご意見を聞かせていただければ有り難いです。
 
    (管理人) baremakeさん、誠意に満ちたご質問を、ありがとうございます。
どういう角度からお答えしようかと、思案しております。
申し訳ありませんが、
土日月あたり、個人的にたてこんでおりますため、
お返事を、いましばらくお待ち下さいますよう、お願い致します。
 

どうして諍いが始まったのか

 投稿者:kaetzchen  投稿日:2009年 3月12日(木)20時49分2秒
  たかぼんさん,実は私にもSさんの言われる内容がさっぱり意味不明です.

それどころか,私はまったく反論をしていないのにもかかわらず,向こうは勝手に
他人を巻き込んで喧嘩を売ってくる.

私は一人のクリスチャンとして,このような行為は「人のすることではない」と
考えていますし,逆に私はネットという公開の場で何を言われようと知らぬふり
をしています.相手を「病人」だと考えれば良いからです.

たかぼんさんにはこの掲示板やメールでS氏からの支離滅裂な話を聞かせてしまい,
大変心苦しく思っております.彼は私をとにかくネット上で追い詰めたいようです.
それだけが生きがいの,悲しい還暦の「自分を学者と思い込んでいる」病人なのです.

どうか,神さまが彼を哀れむことをお祈りして.なお,この書き込みは削除されて
結構です.出世主義に走った,欲望のとりこの人がどういう目にあうかは,旧約に
書かれている通りだからです.私は病を得て,過去の自分を捨てることができました.
そして,静かに,祈りの時を守っております.目が見えなくなって,本が読めなく
なって,仕事を続けることができなくなった時に,私を絶望から救ってくださった
のが聖書研究でした.神経障害でだんだんと指先の神経も弱ってきて,点字聖書も
読めなくなりつつありますが,間違いなくS氏より先に天に召される私には何も
怖いものはありません.だから,この kaetzchen というハンドル名も捨てずに,
また実名もあえて明かさずに,他人のうわさも49日と,のほほんと過ごしております.
それでは失礼いたします.もし,お時間が取れたら,メールをいただければと
存じます.私にとってもう,「名誉毀損」か「学歴詐称」かなどという些細なことは
相手にしたくないだけの話ですから.

そしてまた,どこかの掲示板が犠牲者になるだけなのでしょうね(笑)
本当の「罪人」とは誰なのかが,これではっきりするでしょう.

http://blog.goo.ne.jp/kaetzchen/

 

ひとつの結論。

 投稿者:たかぱん  投稿日:2009年 3月 2日(月)00時57分7秒
  Sさんより、メールを戴きました。
ようやく、最初に記して戴きたかったほどのことが分かりました。

こちらとしましては、
どちらがどう、という判定をする立場にもなく、
事の次第は分からないとしか言えません。

Sさんのメールをここにもしご紹介すると、
今度はkaetzchenさんから「名誉毀損」と言われるような内容だと思われます。

どうぞお二人どうしで、どちらが正しいのか続けて争ってください。
おそらく私はまだ寛大な部類に入るのだと思います。
どれほどこのお二人のような配慮のない言明で、
人を悩ませ、人の時間を多く奪うことになるのか、
それに気づかないでいるような方々に対しては、
もっと怒りをぶつける人も多いのではないでしょうか。

この場での、この件につきましては、
これで終了と致しましょう。
お二人は、他所にてお願いします。

ただし、他のゲストの方々が
こうした問題に関心をもたれた場合には、
節度をもって共にお考え致しましょう。
 

メールをくださった方へ。

 投稿者:たかぱん  投稿日:2009年 2月27日(金)23時53分52秒
  Sさん……でしょうか、メールをくださったのは。

いくつかお伝えすべきことがあるのですが、
まず、メールについて。
この掲示板のシステムで、あなたのメールアドレスは
こちらには伝わって来ません。それで、個別にお返事ができませんでした。
そのために、掲示板において、内容をお伝えするしかありませんでした。
この点についてのあなたの誤解については、あなたに問題があるわけではありません。
ただし、こちらにもどうしようもなかったということをご理解ください。

次に、問題の投稿について。
あなたの仰るように、実名には難しい問題があります。
それが社会的に必要な訴えであれば、実名やむなし、というケースもあるのですが、
実名はよくない、というほうが若干可能性を増すかと私は考えます。
そこで、あなたの仰るとおりに、削除することにしました。
ただし、すでにご説明しましたように、
「即刻」のわりにはSさんからのご連絡がないために、
これはもしかすると、あなたの書き込みそのものがどうだったのか、
疑問に思われる、と考えました。
そこで、掲示板自体の脈絡からしても、
原文を掲示したほうが適切かと思い、
とっておいた本文内容を、「実名を隠して」掲載しました。
これは、繰り返しますが、掲示板のやりとりの脈絡から必要であるのと、
この偽書云々の件についてあなたからの反応がなかったために、
もしかするとkaetzchenさんの訴えに妥当性があるかもしれない、という可能性があったからです。

さて、あなたのお気持ちもお察ししますが、
逆にこちらの気持ちも察してください。
Sさんも、kaetzchenさんも、互いに相手が大嘘をついている、と仰る。
そして、それがどのように嘘であるのか、私は説明を求めましたが、
どちらもどうという説明がありません。
強いて言えば、kaetzchenさんのほうが、背景説明は多くなさっています。
さて、私は、どちらをどう信用すればよいのでしょうか。
残念ですが、あなたの抗議は、あなたが思うほどには、他人には理解できないのです。

第三者の私としては、どちらのことも分かりません。
ただ、問題がはっきりしない以上、実名はまずいとたしかに判断しましたので、
あなたの最初の抗議に私は従い、そこは消しました。
削除した以上、ログもありませんので、ご了解ください。
そして、それ以後のことは記している通りです。
私は基本的に、あなたの仰る通りにしてきたつもりです。
それを、「理解していない」と断じられるのは、不本意な思いが致します。

逆に、こちらの申していることが、ご理解戴けないでしょうか。
あなたにとってはあなたが正しいのは間違いないのですが、
第三者から見て、あなただけが正しいかどうか、分からないのです。
もしも、これに対する十分なご説明がもらえないならば、
私も、他人の喧嘩を庭でしてもらうのも面白くありませんので、
kaetzchenさん関係のものは、全部きれいに削除致します。
すみませんが、争いは他所でやってください。

もしも、また山の中にいないのであれば、
数日以内にご連絡ください。
 
    (追伸) くれぐれも。
最初に実名を消すべきであった、というふうに仰るとなると、
こちらには本来弁解の余地はありません。
その通りなのですが、
社会的に意味のある問題である可能性があった、そのために、
これもまた無理にご理解をお願いする次第ですが、
閲覧者の判断を求める必要があったのです。
 

ご迷惑をおかけしました

 投稿者:kaetzchen  投稿日:2009年 2月25日(水)17時10分9秒
  下のちゃらさんの例もそうですけど,言葉の暴力って,怖いですね.「訴える」なんて簡単に言いますけど,実際に複数の裁判を経験してきた私にとっては,そんな脅し文句はまったく意味のないものです.ましてや,ネット上の掲示板の書き込みなんて,誰が書いたかは少々ネットワークの知識があれば,簡単に逆探知もできるのです (先日,そのおかげで警察でほめられた話はブログに書きました).

とにかくS氏はネット上での私の書き込みを全部チェックしていて (ヒマですねぇ……),書き込まれた方々をたかぽんさんのように脅迫して回っているようです.それこそ,自らが「犯罪人」だと自称しているようなもの.

私たちクリスチャンは「自らは罪人である」と自覚しているぶんだけ,まだましなのかなぁと思ったりしています.(^^;)

http://blog.goo.ne.jp/kaetzchen/

 
    (管理人) S氏の行動をご存じだったとすれば、たしかに、迷惑です。
上記にありますように、
事態を私に知らせずして二人それぞれが
相手の非難を繰り返すような、そんな場を提供するつもりはありませんので、
kaetzchenさんのせっかくのご投稿も、全削除する準備があることを、
ご了承ください。
 

言葉の暴力ですね!

 投稿者:ちゃら  投稿日:2009年 2月24日(火)16時37分37秒
  友が今日、上司から人格否定されたあげく、目障りだから帰れと言われ
帰れと言うのは命令だ!と言って 仕事を取り上げてしまったのです。
この様な事が続くならば匿名でどこかに告発
出来のでしょうか?
それとも耐えるしかないと友を励ますだけなのか良い方法を知っている方いますか?
 
    (管理人) 法的にはどうだか分かりませんので、専門の方にお尋ねになってください。

また、事実関係がどうであるのか不明ですので、こちらでも、なんとも判断ができないことです。ご了解ください。
そのお友だちが、心沈んでいることについては、ご相談に乗らせて戴きたいとは思います。
人は、それぞれ何らかの不満をもつのは当然です。しかし、それで自分を塞いでしまうか、相手を罵倒したいと願うか、それともそのことが益にはたらく方向に歩むか、そのあたりは、実に様々です。
 

6日の投稿の再掲載

 投稿者:たかぱん  投稿日:2009年 2月23日(月)01時18分5秒
  2月6日の投稿

昔の私との共著を勝手に絶版にして,自分の名前でそのままテキストを流し込んだだけの「偽書」ですよ(笑) あれこそ「安易な福音主義的な解釈に「曲げる」こと」(Power for Living ?)そのものです.ネットではウソでっちあげのデタラメを書きまくって,ほとんど名誉毀損状態ですけど,バカは相手にしない主義なので放っています(笑)

ちなみに私は教養学部(科学史・科学哲学)へ進学したかったのですけど,家計の事情で仕方なく医学部へ進学しました.大学院時代は分子遺伝学と「アポトーシス」を専攻してました.「アポトーシス」とは「細胞はどうして死ぬのか」という科学哲学の命題です (単純に非線形数学と物理が大好きだったからといううわさもある.博士論文は数式ばかりです).

小4の時に仲の良かった中学生がいきなり自殺してしまい,幼稚園で通っていた日本基督教団の教会に通っていたこともあります (浅見定雄先生に旧訳の講義を受けたことも).もっとも大学時代に洗礼を受けたのはカトリック教会でしたが(学生結婚のため).その後,厚生官僚とケンカになり,研究者でいられなくなって,仕方なく外科系の医者をしていました.

今ではミサの時間の都合もあり,障害者となり,考えるところがあって,再び日本基督教団の教会へお世話になってます.CSの子供たちと遊んだり,旧約聖書の輪読会でヘブライ語やラテン語やギリシア語やドイツ語やフランス語や英語 (TEV) と新共同訳とのずれを牧師にしては,宿題にしてくれと頭を抱えさせています.

たかぽんさんから見れば,まだまだ「頭でっかち」で「信仰が足りない」のかも知れませんけど.

に対して、そのタイトルに挙げられたSさんと名のる方から、18日に抗議を受けました。
名誉毀損である、というのです。
あれは出鱈目なので即刻削除しないと掲示板主を訴える、というだけで、事情の説明はありませんでした。
そのため、一旦上記の投稿を非公開扱いにすると共に、事情の説明を下記のようにその方に求めましたが、
現在に至るまで回答などがありません。

名の知れたそのSさんがこのようなことをするのはおかしいと思いますので、
おそらくこれはSさんを騙っての抗議だと今は推測しています。
嘘であるのかどうなのか、その事情が全く説明されないとなると、
(たしかに名を挙げたこの投稿が適切であるかどうかは別として、)
この投稿が真実の叫びではないという保証もありません。
つまり、説明なしに、削除しないと訴える、という圧力は言論に対する圧力と判断されます。
そこで、ここでは、実名だけ隠した形で、6日の投稿をここに再掲載することに致しました。

説明を求めています。
あるいは、説明をしているサイトへのリンクを、求めています。
 

再度、18日の午前にメールをくださった方へ。

 投稿者:たかぱん  投稿日:2009年 2月19日(木)13時46分4秒
  再度ここをお訪ねになったはずです。
事情をお知らせ願えませんか。

20日までにもしそうなさらない場合には、
あなたの強要のままに削除させてもらった投稿を、
注釈付きの形で再度掲載させて戴きます。
事実関係について全く説明がない以上、
注釈を入れる形で公開することにより、
公正な判断は読者(閲覧者)に委ねられることになります。
 

18日の午前にメールをくださった方へ

 投稿者:たかぱん  投稿日:2009年 2月18日(水)11時08分40秒
  初めまして。メールを戴きました。
誤字を訂正できないほどお急ぎでお忙しいことはご理解致しますが、
事情の説明も何もなく突きつけられてくると、脅迫めいた内容に見えてしまいます。
これは一般的な観点からしても、適切なものとは思えません。
せめて、事情を説明するか、またはそれを記したリンクを示して戴けませんか。
でないと、こちらも判断ができかねますので。
 

そうそう……

 投稿者:kaetzchen  投稿日:2009年 2月 7日(土)21時17分28秒
  忘れてました.目次ページの「クリスチャンりんく」がぶち切れてました.(^^;)

http://blog.goo.ne.jp/kaetzchen/

 
    (管理人) ありがとうごさいます。
ずいぶん前から切れていたようですね。
如何に管理していないか、が明らかになりました。
早速、カットしています。
 

そいえば……

 投稿者:kaetzchen  投稿日:2009年 2月 7日(土)21時15分38秒
  たかぽんさん,昨晩はどうも.私も塾屋や予備校で教えた経験があるので,ブログは楽しく読ませてもらっています.

さっきも牧師からメールで送られてきた「週報」のあらさがしをして,再送付の憂き目に.今日は彼も個人的に忙しかったので,神さまのことよりも日常の忙しさに心を乱されてしまったものだと思ったりしています.

さて,明日は降誕節第7主日.「灰の水曜日」も25日です.「灰の水曜日」はカトリック時代から,必ず都合を付けて参加するようにしています.カトリックでは棕櫚を燃やした灰を水で練って,ひたいに十字を切るんですよ.アメリカだとカトリックの多い東海岸に多く見られる風習です.

たかぱんさんにも神のお恵みがありますように祈っております.おやすみなさい.アーメン.

http://blog.goo.ne.jp/kaetzchen/

 
    (管理人) 灰の水曜日――ほぼ40日ほどの、きよめ(?)の期間ですね。
儀式には疎いもので、そういう経験はないものですが、
人の歴史の重みを感じます。
この40という数字には、含蓄深いものを覚えます。

どうぞ牧師をあまりいじめないで、ヽ(^O^)ゝ
互いに高めるように――ということは実は低くなるように?――、
歩んでいくようにしてくださいませ。

こちらは今の牧師にはまったく頭が上がりません。
聖書から聴く姿勢を、「芸を盗む」みたいに
倣いたいものだといつも思っています。

復活祭を待つ思いは、春を待つ思いとも重なります。
厳しい冬の先に、きっと春がありますように。
 

kaetzchen さんへ。

 投稿者:たかぱん  投稿日:2009年 2月 6日(金)23時34分14秒
  まあまあ。「頭でっかち」で「信仰が足りない」だなんて、ひとのことを思ったことはないですよ。とくに近年は。

いろいろあるんですねぇ。
「アポトーシス」とは、どこか福音的に感じますね。一粒の麦みたいに。もちろん、科学的にはそんなもんではないのでしょうが、ちょっと考えさせられます。

聖書の翻訳は、やはり人の手による翻訳ですから、どうしても時代状況や立場の違い、お国柄の影響が出てしまいます。そもそも新約聖書のギリシア語でさえ、何の意味か不明なものもあるといいますね。「毒麦」なんか。
そう言い始めると、マタイはマタイの視点でずいぶん偏った記述をしていますし、ヨハネに至っては全くスーパースターのジーザスですよ。

でも、そこにある「覆い」の向こうに、ちゃんと光があるんですね。
それを私ごときが「見える」なんて言い張るつもりはないのですが、自分なりに受けていきたいと考えています。
どうぞ、聖書の光のシャワーをずんずん浴びてまいりましょう。

いろいろご不自由なこともあるかもしれませんが、
貴重な眼差しからの風景を、伝えていくことができますように。
 

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