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baremakeさんへ

 投稿者:たかぱん  投稿日:2009年 3月16日(月)11時32分6秒
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  baremakeさん、誠実なご質問を、ありがとうございました。
あなたの疑問はたいへんもっともなものであると感じました。
あなたのお考えを、こちらこそ批判するということのないように、
何らかの形でお応えしなければならないと思います。

罪の身代わりという考えを人が理解するためには、
まず古代イスラエルにおける準備がありました。
イスラエルあるいは古代中東地域にわたって、
犠牲の動物という考えがあったことです。

実に血なまぐさいものですが、
各地で動物のいのちを差し出すことで、
人の罪悪を許すという図式が理解されていました。
ハムラビ法典でも、「いのちにはいのち」とあったそうですが、
これは聖書の中にもあります。
いのちを差し出さなければならぬほどの大罪を犯したことに対して、
何らかのいのちを、ということで、動物のいけにえを考えたのかもしれません。
日本でも、同様の考えは当然あったはずです。
時に動物でなく、家臣などを含めた人間のいのちでもありましたね。

こうした背景があったがゆえに、
イエスがその犠牲のささげものになった、ということで
当時の人々には捉えやすい理解が可能となりました。
つまり、イエスが命を捨てたから罪の赦しがなされた、というよりも、
そもそも罪の赦しというものは、命を捨てるところに初めてありうる、
そういう前提で人々がいたのだ、という歴史的背景です。

でも、ただ過去の歴史に刻まれたから
そこに意味がある、というのでもなさそうです。

私は、かつてキリスト教に敵対していました。
キリスト教こそが、世界を対立と破壊へ導いたものではないか、と。
だから、キリスト教思想を壊滅させようという野望すらもっていました。

ところが、出会ってしまったのです。
その意味では、パウロの体験にも共感できるところがあります。
パウロの、あの強烈でどこか自己中心にすら見える姿は、
キリストの福音を根底に据える姿勢を見せつけるためであったかもしれません。
なにしろ、実際にキリストに出会ったのであれば、
誰がどう言おうと、自分にとっては真実そのものとなります。

でも、真実には、別の形のものがあります。
3x−1=5 という方程式の問題であれば、x=2 という解があり、
誰がやってもそうなるでしょう。これは真実です。
どうして x=2 なのですか? という質問は、
およそ方程式という意味を了解しない人の台詞でしかありません。

しかし、信仰の言葉は、定式化するタイプのものではなく、
誰にも納得できるというものではありません。
逆にこれを、真理たる命題にしてしまうところに、
宗教の恐ろしい側面が浮かび上がってくる原因の一つがあるように見えます。

従って、パウロはこのキリストの救いの仕組みを、
「神のミステリー」だと言っています(ギリシア語原文)。
それが誰の目にも明らかになるのは、つまり、
このミステリーが全員の目に解決されるのは、
終末の時であるのだ、と言っています。

「神を信じれば幸せになる」ことが、
数学の方程式のように確かな真実として証明されたならば、
誰もが神を信じるでしょう。
しかし、そうなると、「幸せ」という目的のために信じたことになります。
「幸せ」こそ、究極の目的であり、神を信じることはその手段となるでしょう。
それは、少なくとも人間の罪の問題を解決することにはならないはずです。

私はかつて、きっとあなたよりももっと激しく、
自分を信じれば何でもできる、と考えていました。
何か悪いことがあっても、自分の信じるところに立てばいい、と。
ただ自己の内実に掘り下げていけば、真理はある、と疑いませんでした。
けれども、聖書の中で、
その自分が、「救いようがない」者だと、ハンマーで頭を殴られたのです。

自分の罪を自分で解決できるならば、法などいらないでしょう。
ただ道徳さえあれば、自分で修正していけるでしょう。
哲学者カントは、当時の教会をあまり怒らせないように気を配りながらも、
人間の理性の中に、そういう自律の自由な理性がある、と考えました。
近代精神は、このカントを泉として流れ出てきたと言われています。

でも私は、自分でなんか自分は救い得ないのだという次元の地の割れ目に、
深く墜ちていきました。
そのとき、キリストが直接、言葉をかけてくれました。
聖書の中に書かれた言葉が、
まさにこの私へ向けて私の顔へ直接、向けられていたことを知りました。
私は、キリストに、出会ったのです。
そうして、私は、救い出されました。

イエス・キリストの救いはこのようになされる、という
マニュアルや公式に従ったわけではありません。
ただ、聖書の恐らくすべての言葉が
自分のために、自分へ向けて発されているという体験をしました。

短く綴るのは難しい問題です。
それでも、もっと短くお伝えできる内容でしかなかったと、
自分のまとめの下手さを嘆く次第です。

でもとにかく、
baremakeさんは、激しく神に愛されている方だとお見受けしました。
きっと、あなたのための出会いが、
神の側で準備されていることと、私は密かに考えています。

あなたの捉えているような、人間的に誠実な考えより
さらに貧相なレベルでしか聖書の読めない、「牧師」も
世の中に実際いることを考えますと、
baremakeさんが求めて聖書をお読みになったことは、
何かの必要あってのことだ、と思われてなりません。

何の答えにもなっていないかと思いますが、
どうか今回はこれにてご容赦ください。
 
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