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たかぱんさんへ、ご意見を頂き嬉しく思います。
たかぱんさんは、パウロがアナニアによって再び目が見えるようになったようにキリストに出会ったのですね。なんだか羨ましく思います。
キリストは人類の罪のために身代わりに十字架に架けられたというのは、
自分たちの大切なものを犠牲にささげることによって、神の怒りをなだめるという
古代イスラエルの考え方と時代背景があったのですね。もし、私がそのような文化の中に生きていたならばその方が納得がいったのではないかと思います。ただ、私がその時代に生きていたとして、クリスチャンだったか、どうかは分りませんが人としてキリストの死を悼んだと思います。
私は、自分の罪深さを悔い改める事でしか救われないと言いましたが、
マタイによる福音書に
「求めよ、さらば与えられん」
とあるように、神は既に私たちに必要なものを用意してくださっており、用意してくださったものを探して門を叩き続けることしかないということでしょうか?
また、与えて下さった試練を途中で放り出してしまった者は救われることは無いのでしょうか?弱音を吐くようで情けないですが、私の心はすぐに折れてしまいます。キリストがまだ、生きていらっしゃるうちにその事を直接聞いてみたかったと思う私は傲慢かもしれません
お忙しいところ、私の様な者に、お時間を割いて頂き嬉しく思います
ありがとうございました。
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