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再びbaremakeさんへ

 投稿者:たかぱん  投稿日:2009年 3月20日(金)01時00分43秒
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  聖書に求めているbaremakeさんの姿勢をうれしく読ませて戴きました。

私見ですが、クリスチャンになるのは、
当時としても実に珍しいことであったのではないかと想像します。
だからパウロは、そうやって選ばれた各地の信徒に対して、
尋常ならぬ情熱をもって呼びかけたのではないか、と。

「求めよ、さらば与えられん」は、マタイ7:7にある言葉です。
マタイのこの辺りの説教集自体、
様々な語録を編集したものだと言われており、
明確な脈絡はなく置かれている可能性はあるものの、
すべてが無秩序に並べられているわけでもないだろう、と考えられています。
この7章は、「さばいてはならない」から始まっています。
地上のイエスは、当時人々から差別され蔑まれていた立場の人たちに
手を伸ばしました。彼らを差別しなかったのです。

そうした人々は、
社会的に優遇された地位や知識のある宗教者、
律法を守るだけの余裕が生活にあった層の人々から、
「律法も守れないのか」と馬鹿にされていた人々でした。
「あんな奴らの言うことを、神がお聴きになるはずがない」と
軽蔑されていた人々でした。

「求めよ、さらば与えられん」の次の節は、
「だれであれ、求める者は受ける」と記しています。
これが、「求めよ、さらば与えられん」の結論です。
社会的に差別され貧しさの中で律法も守れないような立場の人も含めて、
「だれであれ」、求めるならば神は良いものを与えてくださる、
そういう、良い知らせ、つまり「福音」でした。

門を叩いて探し続けるしかない、のではなくて、
門を叩いて探し続けてよい、と受け止めては如何でしょうか。

試練のことも、これまた難しい問題です。
今このときにも試練にある方々のことを覚えます。
もちろん、私自身が試練から解放されていることもないのですが。
なお、試練に打ち克つ(耐える)努力をほうりだした者は、の意味で
baremakeさんはお書きになっているものと仮定致します。

ただ、試練を克服した者がほめられる表現が聖書にはたしかにありますけれど、
それは逆に、
試練に打ち克つことが、いかに難しかったか、ということを表しています。
ペトロなど、何度試練にへこたれたことでしょう。
弟子たちは、捕らえられたイエスを見捨てて、
トンヅラしたではありませんか。
それを後からのこのこ様子を見に来たり、
十字架刑の後では、ユダヤ人の襲撃を恐れて閉じこもってぶるぶる震えたり。

試練というのが人生の困難であるにしても、
悪魔からの試みのことであるにしても、
すでにキリストは勝利している、という試合結果は定かなのですから、
その勝利の旗のもとに、留まる気持ちがあるのかないのか、
それだけが大切なことではないでしょうか。

私たちの心は折れやすいのですが、
傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことのない(イザヤ42:3)のが
主の姿です。神の恵みです。
私が自分で自分をなんとかしよう、ともがくとき、私は折れてしまうかもしれませんが、
勝利の旗のもとにとどまろうと決意したとき、
たとえそのとき私がぼろぼろに傷ついていたとしても、
主はそれを折ることが、ないのです。

主の足許に、
安心して泣き伏してよい、というのが
私なりの「信」の捉え方です。
偉そうなことばかり申しましてすみません。
どうぞ受難から復活へと
神の愛の満ちあふれるメッセージが、
この春の光の中で、baremakeさんに喜びを満たしてくださいますように。
 
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