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真摯な問いかけと追究を覚えます。
聖書のミステリーを、もう殆ど経験されているのではないか、とすら思われます。
思うに、ひとつひとつの疑問は、私たちには謎として残ります。
まして、私のような者に、あらゆる疑問が解決できるわけではありません。
問われたことは、非常に重く、簡単に結論が出せる問題ではないように見えます。
ただ、パウロは、自分の身を焼く犠牲を払ってでも、愛がなければ無意味だ、と叫んでいました。
通奏低音のように、意味あるものの背後には、愛が流れているというのです。
神はまた、逃れ道のない試練をお与えにならない、という慰めの言葉も、
別の箇所でパウロは用いています。
残された者、とおっしゃることが具体的にどういうことか、分かりにくいのですが、
自己犠牲を払ったその人の周囲の人が、犠牲になった人を悼む気持ちだと今理解しておきます。
「塩狩峠」で残された婚約者の気持ちなど、計り知れないものがあります。
それをすぐに受け容れるような綺麗事であるはずがない、とも思います。
痛みある人には、人間としては共に泣くしかないかもしれません。
偉そうに、それは神の摂理だ、などと言うことなど、できませんから。
ただ、イエスが、その痛みある人を救うことができます。
イエス自身、最大の苦しみを担われたからです。
愛はすべてを耐え忍ぶとあります。
これは、下から支えること、担うという感覚だといいます。
まさにこの愛は、イエスの姿です。
イエスが担ってくださったということに気づいたとき、
そしてさらに言えば、
そのイエスを苦しめたのが自分自身なのだ、と痛感したとき、
私たちは、イエスに出会います。
私は、そんなふうに感じています。
うまく説明できなくて、すみません。
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